2014年3月5日水曜日

ポール・デ・ヴィヴィエ

またまた英語版Wikipediaで英語の勉強です。素人翻訳なので正確な内容が知りたい場合は原文を参照して下さい。

原文はこちら
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_de_Vivie

ポール・デ・ヴィヴィエ

ヴェロシオと表記される事もあるポール・デ・ヴィヴィエ(1853年4月29日生、1930年2月27日没)はレ・サイクリステの発行者、外装変速機の擁護者、フランス自転車旅行・ランドヌーイング [訳注、現代日本で言うブルペに近い] の父として知られている。

●背景

デ・ヴィヴィエはフランスのペルヌ・レ・フォンテーヌで生まれた。彼の青年期は、古典音楽への傾倒を除けば特に目立つところはなかった。彼の父親は貴族の血を引く裕福なガスコン人だった。母親のマルサ・ローマンはアルルの出身だった。ポールは1870年までタラスコン、メイジューに住み、リヨンに近いラシャサーニュで学んだ。

デ・ヴィヴィエは絹業者で徒弟として働き、30歳になる前に聖エティエンヌで自分の事業を始めた。彼は1876年に聖エティエンヌで結婚し、ブロサードの6リューに暮らした。[訳注、ブロサードの6リューの原文は"6 rue Brossard"、ちょっとだけ調べても分からなかったが、rueが道という意味の様なので、日本で言えば京都や大阪等で住所を筋や条といった通りの名前で呼んだりするのと同じか]

1881年28歳の時、彼が初めて買った自転車はペニーファージングだった。同じ年、彼は創設したクラブ、レ・サイクリスト・ステファノスの重役 [訳注、secretaryをどう訳すか前後から推測できなかった] になった。クラブの最初の集会は1881年10月23日に聖エティエンヌのアーツの1リューで行われた。メンバーであるジョルジョンの家がクラブの所在地として1882年に県に登録された。デ・ヴィヴィエが適度に裕福だった証拠の一つとしてクラブの規約がある。規約では入会が許されているのは愛好家のみで、(規約内での)定義では愛好家には通常の勤め人(ordinary working men)は含まれなかった。間接的な証拠としてはライターのジーン・ピエール・バウズの試算があり、当時の自転車の値段は200フラン程で、これは日雇い労働者の56日分の給料に相当するとしている。

クラブ会員は入会金として初年度に17フラン、それ以降は年12フランを支払っていた。クラブは自転車乗りだけでなく、蒸気機関や電動機或いはその他の推進機関の乗り物の愛好者にも開かれていた。

ある友人がデ・ヴィヴィエに6時間で100kmを自転車で走破するという競争の挑戦状を送った。そして彼は山間の保養地であるシェーズ・デューへと出発した。その長閑さや田舎での冒険は彼の生活を一変させ、より良い自転車が必要だという事を彼自身に理解させた。1年後に彼はベイリスの三輪自転車を購入し、その後も二人乗りの三輪自転車やその他の自転車を次々と手に入れた。絹会社の仕事で当時の自転車業界の中心的工業地帯であったイングランドのコベントリィに行くことなった彼は、そこで英国の自転車に大きな感銘を受けまたCTC [The Cyclists' Touring Club; イギリスにある自転車団体。19世紀に端を発し現在でも活動している] へと入会した。1887年に彼は自らの事業を手放し、コベントリィから自転車を輸入する事業とレ・サイクリステという雑誌を発行する事業を行なうザ・エージェンス・ジェネラル・ヴェロシペディック社を聖エティエンヌに設立した。

●多段ギアの伝道者

デ・ヴィヴィエはイギリスから機械を輸入した。1889年には、ラ・ゴロワーズと名付けた自身の自転車を作成した。それはダイアモンドフレームで、シングルギアでチェーン駆動だった。同年、デ・ヴィヴィエはその自転車で聖エティエンヌから南東に10kmの所にあるコル・デ・ラ・レピュブリックへサイクリングしたが、彼の(雑誌の)読者が追いついたとき、彼はパイプを吹かしていた。デ・ヴィヴィエは挑戦に失敗し、またある陥穽に落ちていた。もし彼のギアがより低い比であれば、平地では速く走れなかっただろう。しかし、その時の彼のギアの設定では、十分に速くは丘を越える事ができなかったのだ。英国流の考え方で好まれたものは、後ハブに内蔵された遊星歯車機構(による多段ギア)だった。デ・ヴィヴィエは外装変速機を作成した。第1号は2つチェーンホイールを持つ物で、チェーンは手で掛け替えるようになっていた。次に左側にも2つのチェーンホイールを装着した。これによって組み合わせによる4つのギア比が得られた。1901年にヴェロシオは彼の発明した4つのギアをイギリス製のウィペットに組み込んだ。[訳注、以下の2つの文は上手く翻訳できず] Pedalling backwards made the two halves of the chain wheel open. Pawls then secured them in one of four positions. デ・ヴィヴィエが開発した最初の外装変速機は1906年にシェミノーでお披露目された。彼は特許について見落としていたが、彼のサイクリングを変化させるような発明品は辛うじて儲けを生んだ。

デ・ヴィヴィエが外装変速機は作る前に既にイギリスではそれが存在したので、彼は単に外装変速機を(発明したのではなく)より有名にしたと言われている。

伝統的な自転車乗りは、彼の外装変速機の真価を認めなかった。ツールドフランスの主催者である、ヘンリ・デスグランデは L'Auto [訳注、不明。フランスのスポーツ団体か] の場で、外装変速機は病人か女性向けの物だと言って否定した。それ以来デ・ヴィヴィエによる自身の発明品の宣伝活動が始まった。彼は毎朝、コル・デ・ラレピュブリックへ自転車で出掛けて、そこで外装変速機を装備していない自転車たちをごぼう抜きにする事を楽しんだのだ。

フランス・ツーリング・クラブは1902年にある対決を企画した。プロであるエドワード・フィッシャーが外装変速無しで、一方女性の自転車乗りであるマルサ・ヘッセが3段の外装変速機を装備したゴロワーズで、丘越えを含む200kmの工程を競うという物だ。結果はヘッセの勝利。ある新聞によれば彼女は「そのコースを走る間一度も足を地面につかなかった」と言う。しかしデスグランデは以下のように書いている。

「この試験は素晴らしいものだった、しかし私は依然として外装変速機というものは、45歳の坂を越えた人々の物だと感じている。より価値のある勝利というものは、人工的な外装変速機などというものではなく、個々の肉体の力によってこそ得られるものではないか? 我々は軟弱になっている。みなさん、喧伝しようではないか。この試験は素晴らしい実演だったと、そう私たちの祖父母にとっては! 私はね、そう私には――固定ギア車をくれ!」

デ・ヴィヴィエの発明品は聖エティエンヌにある工場と美術館にある。彼の友人であるアルバート・レイモンドは彼の着想をもとに開発し、シクロというギア製造会社を始めた。レイモンドはヴィヴィエの様に丘を越えるサイクリングを楽しんだ。

デ・ヴィヴィエはまた、近年に於けるアレックス・モールトンに先立つ20インチ程度の小径車の唱道者でもあった。1911年に彼は以下のように書いている。

「私自身の実践は(直径)50㎝のホイールに50㎜幅のタイヤを装着する所までしか辿りつかなかった。しかし私は保障できるが、自転車走行体験が15000kmまで及んだ人々の視座からは小径の不利な点は感じられないだろう。小径車はより滑る傾向があるが、単にそれは多分タイヤが溝を持たない事と車体の全長が短い事が原因であろう。ホイールの適切な大きさが70㎝だとどんな形であれ証明される事の無いまま、それが最適な大きさだと一般的には合意が形成されている。さも自転車乗りというのが従順な羊の如く疑いを持たないと思っているかのように。
 間違いなく、均一性というのは我々を退屈で型にはまったものへと直接導く。多様性というのは我々の気を散らせるものだが、緊張を保ち興味と探求心を持って常に観察するのだ。変化は常に完璧ではないが、私はより良い他の自転車技術がやってくるのが分かる。一つの立場に固執したり、杓子定規なやり方は、産業と男たちにとっては最も悪いものなのだ」

ヴェロシオはフランスの聖エティエンヌに没した。ザ・サイクリスツ・ツーリング・クラブの機関紙に掲載された彼の死亡記事には、オープンフレーム [訳注、ダイアモンドフレームでは無くトップチューブが低い物] の小径車と共に彼の写真が載っていた。

ポール・デ・ヴィヴィエは賢明なる自転車乗りの七か条を考案した。

一つ、停車は短く少なくする事
二つ、空腹になる前に食べ、乾く前に飲め
三つ、決して疲労する事の無い様に食べ、眠れ
四つ、寒くなる前に一枚羽織り、厚くなる前に一枚脱げ
五つ、自転車行中(on tour)は、ワイン、肉、煙草を止めよ
六つ、内省的に走行せよ、特に最初の一時間は
七つ、決してひけらかすな


●ヴェロシオ

[訳注、以下の一文上手く翻訳できず。ヴェロシオが自転車行について以下のように綴った、という様な意味]
Vélocio wrote of his tours in a language that inspired a nation - France - in which holidays with pay were unknown:

 少し前まで仄かな月の光に包まれていた銀嶺に、蒼穹を貫き黄金の光が一条降り注いだ。僅かな間峰に反射して煌めき、天空の瀑布から山への落ちて行った。万物の主、命と光と暖かさをもたらす偉大なる者が迫っている兆しだ。刹那の瞬間。まるで流星の様に、私を包む闇の海へと溶けて谷の奥へと消えた。綺羅の如き返照、炎の噴出は去り再び雪の装いがその冷たさと幽玄たる表情を取り戻した。

また再び:

 幾日も自分の自転車の上で過ごした後、私は快適で清浄な気分だった。自然環境との落ち着いた触れ合いで私は静かな気持ちになった。日に日に自転車への深い感謝の念が浸透していった。例え自転車行を楽しめなかったとしても、私は依然として静かな気持ちであり続けたであろう。日光を浴びる事、雨で濡れ鼠になる事、埃での咽び、滴る霧、厳しい空気、向かい風!――これ程素晴らしい強壮剤があるだろうか。私は決して忘れないだろう、ピュイマリー山へ登った日々の事を。5月のある日は私たち2人にとって良い日となった。私たちは、朝日の中上半身裸のまま出発した。半ば程で、雲が我々を包み込み天気は急変した。徐々に寒く湿気が出てきたが、特に気にはしなかった。実際の所、それは私たちの満足感を高めた。上着や外套を羽織る事に悩まされ無いまま、山頂の小さな宿に着いた時、私たちの体には雨の小川と汗の滝が流れていた。私は頭の天辺から爪先まで、血管がどくどくと波打っていた。

●死、そして記念碑

デ・ヴィヴィエは菜食主義者、エスペラント語話者であった。晩年には毎日古代ギリシア語を読む事を始めた。1930年2月27日、彼が最後に読んでいたのは小セネカの書いたものだった。

 死の影が忍び寄り、命が私から抜けていこうとしている。もし私が眠ったなら、もう二度と目覚めないのではないか。私が起きた時、私は二度と眠らないのではないか。私が外へ出たとき、私は決して戻ってこないのではないか。

その時彼は自身の自転車を集め、道を横切ろうとした。車を避けるために後退したところに路面電車が衝突した。彼の記念碑はコル・デ・ラ・レピュブリックの頂上にある。そこにはこう記されている:「ポール・デヴィヴィエ、またの名をヴェロシオ(1853年ペルヌ生まれ、1930年聖エティエンヌ没)。自転車旅行の伝道者にして外装変速機の推進者。記念碑は生誕150年を記念してペルヌ・レ・フォンテーヌ市によって建てられた。落成式は2003年4月20日に行われた。

ヴェロシオの記憶は彼が作ったシクロ・ツーリズムというフランス語と共に残っている。彼はリヨンに近いロワイヤル墓地に葬られた。墓標には「高潔な匠、聖エティエンヌのシクロ・ツーリストに捧ぐ」と書かれている。聖エリエンヌには彼の名にちなんだ道路がある。

アメリカのライター、クリフォード・グレイブは1965年5月に次のように言った。

 ヴェロシオの自転車に対する功績によってではなく、彼が示した、功績が人物を形成するという点によって、彼の影響力は広がっている。ヴェロシオは人文主義者だった。彼の哲学は、鍛練というものは基本的な美徳と考えられていた古代のものから来ている。鍛練には二種類あり、肉体的なものと道徳的なものである。ヴェロシオは自転車による肉体的な鍛練から道徳的な修練を導いた。自転車を通して、彼は太陽、雨、風と交わる事が出来た。彼にとって、自転車は個人的な哲学の発露であり、自転車は着想を支える楽器であり、また肉体的、精神的な自由への道であった。彼は多くを諦めたが多くを発見したのだ。

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