2014年3月15日土曜日

Legacy of the Crystal Shard 1 [160]

バルダーズゲートのシナリオが終了したので、表題のシナリオを開始しました。全員レベルは2です。DMはつかださん。

  • [撃破役/防衛役], チキチキ, Hybdir Range/Warden, Thre-Kreen, 画伯
  • [撃破役/防衛役], パック, Berserker, Pixie, ほえほえさん
  • [撃破役], シエラ, Hybrid Vampire/Monk, Eladrin, からくりさん
  • [指揮役], ブライス, Skald, Tiefling, 羽生さん
  • [制御役], ローレン, Excutioner(Way of the Ninja, Multiclass Invokar), Wood Elf, 死せる詩人

唐突ですが、D&D4版は新時代に突入しました。最早ルールブックのクラスの説明に書いてある役割[Role]というものは飾りに過ぎません。ゲームの中で *結果として* どの様な役割を果たしたのかが、そのキャラクタの役割を規定する末法の世の幕開けです。

12時半に開始して、途中珈琲休憩をはさみつつ18時に終了。4戦闘、1技能チャレンジでした。

2014年3月14日金曜日

【今日の読書】20歳の自分に受けさせたい文章講義 [697]

書名
20歳の自分に受けさせたい文章講義
著者
古賀 史健
出版
星海社新書
価格
907円
ISBN
978-4-06-138510-8

 本日読了。時々ブログや日記でこの本の書評を見かけると絶賛しているも のもあったりして記憶に残っていたので、出張の新幹線で読む物が無かったの で購入。あまり期待はしていなかったのですが、その期待通りというか僕には 殆ど意味の無い内容でした。論理が破綻していたりする所も多くてかなり気に なりました。

 ただ書名はあながち間違いではないかなと思います。20代前半までで、文 章の書き方について意識した事がこれまで無かった人には十分役立つ内容でしょ う。僕としては、そういう人にはこの本よりも『理科系の作 文技術』がお勧めです(特に理系で論文を書く人には)。

【今日の読書】説得とヤル気の科学 [696]

書名
説得とヤル気の科学
著者
Susan Weinschenk
訳者
武舎 広幸、武舎 るみ
出版
オイラリー
価格
2376円
ISBN
978-4-87311-657-0

 本日読了。全体的に「影響力の武器(以下、影響力)」に内容が似ているな、 と思って読んでいたら参考文献に「影響力」があるだけはなく、「影響力」が 参照していた論文もまた本書の参考文献として多数掲載されていました。「影 響力」が様々な社会的な影響力から自分を守る術を記した本だとすれば、本書 はそういった社会的な影響力を使う側としての技術を書いた本です。内容的に も「影響力」の方がしっかりしているので、どちらか一冊を読むならば「影響 力」の方が良いでしょう。

2014年3月13日木曜日

ラレー自転車会社

英語版Wikipediaで英語の勉強です。素人翻訳なので正確な内容が知りたい場合は原文を参照して下さい。

原文はこちら

http://en.wikipedia.org/wiki/Raleigh_Bicycle_Company

= ラレー自転車会社

ラレー自転車会社は元来は連合王国のノッティンガムに居を置く自転車製造会社である。世界で最も古い自転車会社の一つで1887年に設立された。1921年から1953年の間は自動二輪や三輪自動車も製造していて、それが一連のラレーカンパニーの組織へとつながった。

== 歴史

=== 初期

ラレー社の歴史は1887年にノッティンガムのラレー通りから始まった。38歳で経済的に成功していたフランク・ボウデンは医者から健康の為に自転車に乗りなさいと進められたのでメサーズ社の自転車を一台購入した。ボウデンは自転車というものにいたく感心し、ラレー通りで自転車製作者を探した。ウッドヘッド、アンゴイス、エリスらは週に3台の自転車製作していた。ボウデンはその事業を買い取ることを提案した。製品が出荷され、3年後にはより大きな作業場が必要となったので、ラッセル通りにある4階建てのビルへと移った。彼は会社が最初にあった場所の記念に社名をラレー自転車へと変更した。

それから6年ボウデンは事業を拡大し、会社はノッティンガムのレントン、ファラデイロードに7エーカー半をも占める世界最大の自転車製造会社へと成長した。

フランク・ボウデン卿は1921年に死去し、息子のハロルド・ボウデン卿が男爵位と社長の座を継ぎ、次なる拡張の17年の間会社の舵を取った。

第二次世界大戦中、ノッティンガムにあるラレーの工場は信管の製造に使われた。自転車製品は平時の出荷量の僅か5%まで減少した。

1939年にラレーはアイルランドのダブリンにあるハノーバー埠頭6丁目に自転車工場を開き、その地での自転車製造に着手した。ラレーのアイルランドでの事業は拡大し1943年には拠点をダブリンのハノーバー埠頭8-11丁目へと移した。1976年に火事で焼失するまでその工場では完成車とスターメイ・アーチャーのハブを作成していた。後期のモデルにはチョッパーとトライアンフ20がある。ヘッドバッジは1960年代の後半には、連合王国での取引表示法を通過する為に変更された。ダブリン製のヘロンやトライアンフのヘッドバッジには最早「Nottingham England」とは記されず、その部分は空欄になった。

=== 原動機付き

1899年にラレーは自動二輪の製造を開始し、1903年にはラレイッテというベルト駆動で3つのホイールを持ち、2つの前輪の間に乗客 [訳注、自転車を操縦しない人] が乗り、後ろに運転手が乗る自動二輪を売り出した。しかし財務上の損失が原因で、この製品は1908年までしか続かなかった。

1930年にラレー社はアイヴィー・キャリアル社が持つ自動二輪向けの荷物用キャビンと運転手用の幌の権利を獲得した。ラレー社が製作した版の物は、配達用軽バンと呼ばれチェーン駆動でした。最初の3輪自動車に続く、2人の乗客が乗れるものは安全7型と呼ばれた。それは4シートの客室を持ち、シャフト駆動で最高時速89キロであった。特別客車版も計画されていたが、ラレー社は原動機付き部門を止め再び自転車へと注力した。[訳注、原動機付き部門の] 主任設計者のT.L.ウィリアムスは残った部品と共にタムワースへ移り、そこで彼の会社は65年間3輪自動車を製造し続けた。ラレーから持ってきた部品には「R」と刻印されていたので、ウィリアムスはそれに合うように社名を「Reliant」とした。[訳注、上記の最後の文の翻訳が不安]

1950年代後半から1960年代にかけては自転車市場が衰退していたので、ラレー社はモペッドも作っていた。その最も有名な物はRM6ランナバウトである。このモデルの特徴としては、スプリングの無い前フォークに、自転車用にキャリパーブレーキが前輪についており、手頃な移動手段となっていた。その成功にも関わらず、モペッドの販売は1971年の2月までしか続かなかった。ラレーは17か月後には全てのモペッドの製造を中止したのだ。

=== 戦後の自転車製造

第二次世界大戦後ラレーはスターメイ・アーチャーの3ないし5速の変速機を装備した軽量なスポーツ向けロードスター型自転車で知られる様になった。これらのラレーの自転車は、それ以前にあった英国式の重いロードスターやアメリカの風船タイヤを装備したクルーザー自転車に比べて、かなり軽量で速かった。1946年にはラレーと他のイギリスの自転車製造会社が作った自転車の95%はアメリカへの輸出に向けられていた。

ラレーのスポーツ用ロードスターやブリテン式競技自転車はアメリカを含む世界中に輸出された。ラレー社のアメリカへの輸出は、東ドイツやオランダからの輸入へ転じた事に起因する自転車に対する関税率が増加する1955年まで増加し続けた。しかしながら、これは一時的な後退に過ぎず、1964年には再びラレーがアメリカでの大きなブランドとして市場を占めるようになった。

=== ラレーRSW

1965年、ラレーはRSW16を発表した。これは大きな成功を果たしたモールトン社の自転車への対抗馬として期待されていた。ラレーの新車は幾つかの点でモールトンと共通の特徴を持っていた。それは小径である事、オープンフレームである事、そして組み込まれた荷台と鞄である。

しかし、RSWにはモールトンにあるサスペンションが欠けていた。モールトンはこのサスペンションによって、小径車の不利な点である路面からの衝撃に弱い事を補っていた。一方ラレーはRSWに太い低圧タイヤを装着する事で効果的に路面からの衝撃を低減したが、走行抵抗を犠牲にする事になった。それにもかかわらず、例え多少太っている人であってもRSWでの走行は快適だった。そしてラレーの広範な販売網はその成功を確実なものにした。

RSWによってモールトンの売り上げは奪われ、この新しい会社は財政上の困難に見舞われることになった。そしてラレーはモールトンを買収したが、それによって自分自身を奇妙な立場へ置くことになった。いち早く小径車として成功したモールトンと、自分たちがそれに対抗する為に作った小径車を同時に製造することになったのだ。ラレーは少しずつ売上が減少していく1974年まで両方の販売を続けた。ラレー20は1980年代まで長きにわたって成功した製品となった。

=== 拡大と合併

1950年代半ばに、自動二輪が一般にも手が届く価格になり人気を集め始めるまでは国内市場では自転車の生産高は着実に増加していった。戦後の時代に即していたこともあり、ブリテン島の自転車製造会社は互いに輸出市場で鎬を削った。1950年代には、フィリップス、ヘラクレス、サン、アームストロング、ノーマンといったTIグループの出資の元、ブリテン自転車会社が設立した。1957年にラレーはBSAの自転車部門を買収した。

BSA自身も5年前にトライアンフ自転車会社を買収したばかりであった。1960年にTIグループはラレーを買収しブリテン自転車会社に併合しTIラレーは連合王国の自転車市場の75%を占めるに至った。更にTIラレーはイギリス、ワークソップにあるカールトン自転車を吸収した時、連合王国最大の軽量自転車製造者となった。[訳注、以下の一文上手く翻訳できず] Raleigh brands acquired and marketed were Phillips Cycles and Hercules Cycle, Rudge, BSA, and Sun, however these were cheaper machines in The TI-Raleigh range. 生産拠点はノッティンガムに移っていたが、サンのブランドの自転車はイギリスのワークソップにあるカールトン社の工場で作られていた。

1960年の半ばにTIラレーは、縦割りに統合された製造社としてブルックス(世界でも最も古いサドル製造社の一つ)、スターメイアーチャー(3速内装ハブの先駆)、そしてレイノルズ(531チューブの製造会社)を所有するに至った。ハフィとのリブランドの取引に失敗した後にアメリカ市場への進出を果たせなかったカールトンは、1960年台後半にラレー・カールトンと名称を改め、カールトンのバッジを付けたラレーのロゴマークを持つ自転車をアメリカの販売業者の網を使って輸出・販売する事で成功した。

=== ラレー・チョッパー

ラレー・チョッパーが1969年4月に最初にカナダで販売された時はファストバック100という名前だった。一方北アメリカでは同年の6月にラレー・チョッパーという名のまま子供向け自転車として登場した。1970年には連合王国での販売を開始し、良好な売り上げを見せ、会社の再生に対する重要な要因となった。チョッパーは3足のスターメイアーチャーの内装ハブギアを持ち、シフターはトップチューブに装着されていて初期のハーレーダビットソン――その「クールな」特徴である――自殺シフターを想起させる物だった。他の特徴としては、特殊なフレーム、パッドの入りでスプリング付きの背もたれある長いサドル、長く高い位置にあるハンドルバー、前後輪が異なるサイズのホイール(前16インチ、後20インチ)があった。タイヤは当時の平均的な物よりも太く、後タイヤは接地面が分厚く側面に赤いハイライトがあった。価格は標準版のチョッパーが約32英ポンド、豪華版が55英ポンドだった。チッパーとトマホークという名の2種類の小型版もまたよく売れた。

改良されたチョッパー2型は1972年に登場した。初期型と同様のレバーを持ちながら、5速の内装ハブをオプションとして選択できた。2型では後輪が更に後方になり[訳注、チェーンステーが伸びてホイールベースが長くなったという事だろう]、車体がばたつき防止に一役買った。チョッパーはBMXが人気を博した事で売り上げが落ち始める1982年まで製造され。それにもかかわらずチョッパーは、世界中で100万台という売り上げでラレーを窮地から救った。

=== 再組織化と新しい所有者

1979年には、ラレーの531バテッドチューブ自転車は年間生産量10000ユニット [訳注、単位には単位unitsとあるが台数の事だろうか] に至った。1982年にはラレーアメリカの権利はハフィー社に売却された。この合意の下にイギリス・ラレーはアメリカでラレーの自転車を製造し販売する事と、即座にラレーが国中に持つ自転車店網を利用する事を認可した。アメリカ・ラレー自転車会社と名前を変えた会社は、イギリス・ラレーから受け取った自転車をカナダを含む北米で販売した。当時ラレーはブリヂストンと手を組み幾つかのモデルの生産拠点を日本に移していた。1984年までにはチーム・プロフェッショナルという旗艦製品とプレステージというロードバイクのみがノッティンガムで製造され、その他全てのアメリカ市場向けのラレーは極東で製造されるに至った。

1987年に、ドイツの自転車製造会社であるダービー社が主導してハフィーからアメリカ・ラレーを買収した。今日では、アメリカ・ラレー自転車会社の部品とフレームは、ダービー社によって中国と台湾で大量生産され、その他の工場で組み立てられている。デンマーク・ラレーは依然として古典的なロッドブレーキモデルを提供している。イギリス・ラレーでは、ワークソップにある「カールトン」工場でストライキが発生し閉鎖された。そして1981年には少数精鋭の従業員はノッティンガムに移った。最も高級な車種のフレームセットは、ゲラルド・ドノヴァン5世の助言により1974年から1989年の間イクストン・スペシャル自転車開発部によって製造されていた。この製品はノッティンガムにある新しいラレー特別製品部門へと移された。

カナダ・ラレーは1972年から2013年まで、ケベックのウォータールーに生産拠点を構えていた。

ダービー社は1999年にダイアモンドバック自転車者を買収した。

同年、ラレーは連合王国でのフレームの製造を停止し製造用機械を競売にかけた。

2000年には、ダービー社はアメリカ・ラレー、連合王国ラレー、カナダ・ラレー、アイルランド・ラレーを傘下に置いた。連合王国、カナダ、アイルランドの市場ではラレーは自転車業界の最大手である。ダービー社は会社の財務状況の悪化が原因で、一連の身売りを始めた。まずノッティンガムにあったスターメイアーチャーの工場を売却し、次にはスターメイアーチャーの事業そのものと、サドル製造会社のブルックスを小さなレナークと呼ばれていた会社に売った。レナークはカルバートンに新しい工場を作ると約束したが、最初の支払いができずそのまま事業整理に突入してしまった。[訳注、以下の翻訳自信無し。原文はIt was reported that the reason for selling the business, after extracting the cash for the factory site, was to have Lenark declare it insolvent so that neither Derby nor Lenark would have to pay the redundancy costs.] 事業売却の理由は、工場から現金を抜き取った後にレナークが倒産する事で、ダービー社もレナーク社も退職金を支払う必要を無くす為だと言われている。スターメイアーチャーの試算は台湾のサンレース社に買収され、工場は台湾に移転しオランダ向けの販売になった。姉妹会社のブルックスはイタリアのセラ・ロイヤルに売られた。

ダービー社の財務上の問題は解決せず、2001年にはアラン・フィンデン・クロフトの采配で残っているラレー関連会社の全てを売り払った。


2003年までには連合王国での自転車の組み立て工場は閉鎖し、280人の組立工は解雇された。ラレーの自転車はベトナムや他の「低賃金・高品質」な地から送り出されることになった。ただ最後の組み立て工程のみがドイツのクロッピングバーグで行われている。

2012年、ドイツ・ラレーを含むダービー社はオランダの会社であるポンに買収され、ガゼル、サーヴェロと共にグループ企業内の自転車会社を形成した。

2012年4月、連合王国、アメリカ、カナダのラレーはオランダのアクセリグループに別々に100万USドルで買収された。

※この後ラレーがスポンサーをしていた? 自転車チームの項目が続くがまだ翻訳していない

2014年3月5日水曜日

ポール・デ・ヴィヴィエ

またまた英語版Wikipediaで英語の勉強です。素人翻訳なので正確な内容が知りたい場合は原文を参照して下さい。

原文はこちら
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_de_Vivie

ポール・デ・ヴィヴィエ

ヴェロシオと表記される事もあるポール・デ・ヴィヴィエ(1853年4月29日生、1930年2月27日没)はレ・サイクリステの発行者、外装変速機の擁護者、フランス自転車旅行・ランドヌーイング [訳注、現代日本で言うブルペに近い] の父として知られている。

●背景

デ・ヴィヴィエはフランスのペルヌ・レ・フォンテーヌで生まれた。彼の青年期は、古典音楽への傾倒を除けば特に目立つところはなかった。彼の父親は貴族の血を引く裕福なガスコン人だった。母親のマルサ・ローマンはアルルの出身だった。ポールは1870年までタラスコン、メイジューに住み、リヨンに近いラシャサーニュで学んだ。

デ・ヴィヴィエは絹業者で徒弟として働き、30歳になる前に聖エティエンヌで自分の事業を始めた。彼は1876年に聖エティエンヌで結婚し、ブロサードの6リューに暮らした。[訳注、ブロサードの6リューの原文は"6 rue Brossard"、ちょっとだけ調べても分からなかったが、rueが道という意味の様なので、日本で言えば京都や大阪等で住所を筋や条といった通りの名前で呼んだりするのと同じか]

1881年28歳の時、彼が初めて買った自転車はペニーファージングだった。同じ年、彼は創設したクラブ、レ・サイクリスト・ステファノスの重役 [訳注、secretaryをどう訳すか前後から推測できなかった] になった。クラブの最初の集会は1881年10月23日に聖エティエンヌのアーツの1リューで行われた。メンバーであるジョルジョンの家がクラブの所在地として1882年に県に登録された。デ・ヴィヴィエが適度に裕福だった証拠の一つとしてクラブの規約がある。規約では入会が許されているのは愛好家のみで、(規約内での)定義では愛好家には通常の勤め人(ordinary working men)は含まれなかった。間接的な証拠としてはライターのジーン・ピエール・バウズの試算があり、当時の自転車の値段は200フラン程で、これは日雇い労働者の56日分の給料に相当するとしている。

クラブ会員は入会金として初年度に17フラン、それ以降は年12フランを支払っていた。クラブは自転車乗りだけでなく、蒸気機関や電動機或いはその他の推進機関の乗り物の愛好者にも開かれていた。

ある友人がデ・ヴィヴィエに6時間で100kmを自転車で走破するという競争の挑戦状を送った。そして彼は山間の保養地であるシェーズ・デューへと出発した。その長閑さや田舎での冒険は彼の生活を一変させ、より良い自転車が必要だという事を彼自身に理解させた。1年後に彼はベイリスの三輪自転車を購入し、その後も二人乗りの三輪自転車やその他の自転車を次々と手に入れた。絹会社の仕事で当時の自転車業界の中心的工業地帯であったイングランドのコベントリィに行くことなった彼は、そこで英国の自転車に大きな感銘を受けまたCTC [The Cyclists' Touring Club; イギリスにある自転車団体。19世紀に端を発し現在でも活動している] へと入会した。1887年に彼は自らの事業を手放し、コベントリィから自転車を輸入する事業とレ・サイクリステという雑誌を発行する事業を行なうザ・エージェンス・ジェネラル・ヴェロシペディック社を聖エティエンヌに設立した。

●多段ギアの伝道者

デ・ヴィヴィエはイギリスから機械を輸入した。1889年には、ラ・ゴロワーズと名付けた自身の自転車を作成した。それはダイアモンドフレームで、シングルギアでチェーン駆動だった。同年、デ・ヴィヴィエはその自転車で聖エティエンヌから南東に10kmの所にあるコル・デ・ラ・レピュブリックへサイクリングしたが、彼の(雑誌の)読者が追いついたとき、彼はパイプを吹かしていた。デ・ヴィヴィエは挑戦に失敗し、またある陥穽に落ちていた。もし彼のギアがより低い比であれば、平地では速く走れなかっただろう。しかし、その時の彼のギアの設定では、十分に速くは丘を越える事ができなかったのだ。英国流の考え方で好まれたものは、後ハブに内蔵された遊星歯車機構(による多段ギア)だった。デ・ヴィヴィエは外装変速機を作成した。第1号は2つチェーンホイールを持つ物で、チェーンは手で掛け替えるようになっていた。次に左側にも2つのチェーンホイールを装着した。これによって組み合わせによる4つのギア比が得られた。1901年にヴェロシオは彼の発明した4つのギアをイギリス製のウィペットに組み込んだ。[訳注、以下の2つの文は上手く翻訳できず] Pedalling backwards made the two halves of the chain wheel open. Pawls then secured them in one of four positions. デ・ヴィヴィエが開発した最初の外装変速機は1906年にシェミノーでお披露目された。彼は特許について見落としていたが、彼のサイクリングを変化させるような発明品は辛うじて儲けを生んだ。

デ・ヴィヴィエが外装変速機は作る前に既にイギリスではそれが存在したので、彼は単に外装変速機を(発明したのではなく)より有名にしたと言われている。

伝統的な自転車乗りは、彼の外装変速機の真価を認めなかった。ツールドフランスの主催者である、ヘンリ・デスグランデは L'Auto [訳注、不明。フランスのスポーツ団体か] の場で、外装変速機は病人か女性向けの物だと言って否定した。それ以来デ・ヴィヴィエによる自身の発明品の宣伝活動が始まった。彼は毎朝、コル・デ・ラレピュブリックへ自転車で出掛けて、そこで外装変速機を装備していない自転車たちをごぼう抜きにする事を楽しんだのだ。

フランス・ツーリング・クラブは1902年にある対決を企画した。プロであるエドワード・フィッシャーが外装変速無しで、一方女性の自転車乗りであるマルサ・ヘッセが3段の外装変速機を装備したゴロワーズで、丘越えを含む200kmの工程を競うという物だ。結果はヘッセの勝利。ある新聞によれば彼女は「そのコースを走る間一度も足を地面につかなかった」と言う。しかしデスグランデは以下のように書いている。

「この試験は素晴らしいものだった、しかし私は依然として外装変速機というものは、45歳の坂を越えた人々の物だと感じている。より価値のある勝利というものは、人工的な外装変速機などというものではなく、個々の肉体の力によってこそ得られるものではないか? 我々は軟弱になっている。みなさん、喧伝しようではないか。この試験は素晴らしい実演だったと、そう私たちの祖父母にとっては! 私はね、そう私には――固定ギア車をくれ!」

デ・ヴィヴィエの発明品は聖エティエンヌにある工場と美術館にある。彼の友人であるアルバート・レイモンドは彼の着想をもとに開発し、シクロというギア製造会社を始めた。レイモンドはヴィヴィエの様に丘を越えるサイクリングを楽しんだ。

デ・ヴィヴィエはまた、近年に於けるアレックス・モールトンに先立つ20インチ程度の小径車の唱道者でもあった。1911年に彼は以下のように書いている。

「私自身の実践は(直径)50㎝のホイールに50㎜幅のタイヤを装着する所までしか辿りつかなかった。しかし私は保障できるが、自転車走行体験が15000kmまで及んだ人々の視座からは小径の不利な点は感じられないだろう。小径車はより滑る傾向があるが、単にそれは多分タイヤが溝を持たない事と車体の全長が短い事が原因であろう。ホイールの適切な大きさが70㎝だとどんな形であれ証明される事の無いまま、それが最適な大きさだと一般的には合意が形成されている。さも自転車乗りというのが従順な羊の如く疑いを持たないと思っているかのように。
 間違いなく、均一性というのは我々を退屈で型にはまったものへと直接導く。多様性というのは我々の気を散らせるものだが、緊張を保ち興味と探求心を持って常に観察するのだ。変化は常に完璧ではないが、私はより良い他の自転車技術がやってくるのが分かる。一つの立場に固執したり、杓子定規なやり方は、産業と男たちにとっては最も悪いものなのだ」

ヴェロシオはフランスの聖エティエンヌに没した。ザ・サイクリスツ・ツーリング・クラブの機関紙に掲載された彼の死亡記事には、オープンフレーム [訳注、ダイアモンドフレームでは無くトップチューブが低い物] の小径車と共に彼の写真が載っていた。

ポール・デ・ヴィヴィエは賢明なる自転車乗りの七か条を考案した。

一つ、停車は短く少なくする事
二つ、空腹になる前に食べ、乾く前に飲め
三つ、決して疲労する事の無い様に食べ、眠れ
四つ、寒くなる前に一枚羽織り、厚くなる前に一枚脱げ
五つ、自転車行中(on tour)は、ワイン、肉、煙草を止めよ
六つ、内省的に走行せよ、特に最初の一時間は
七つ、決してひけらかすな


●ヴェロシオ

[訳注、以下の一文上手く翻訳できず。ヴェロシオが自転車行について以下のように綴った、という様な意味]
Vélocio wrote of his tours in a language that inspired a nation - France - in which holidays with pay were unknown:

 少し前まで仄かな月の光に包まれていた銀嶺に、蒼穹を貫き黄金の光が一条降り注いだ。僅かな間峰に反射して煌めき、天空の瀑布から山への落ちて行った。万物の主、命と光と暖かさをもたらす偉大なる者が迫っている兆しだ。刹那の瞬間。まるで流星の様に、私を包む闇の海へと溶けて谷の奥へと消えた。綺羅の如き返照、炎の噴出は去り再び雪の装いがその冷たさと幽玄たる表情を取り戻した。

また再び:

 幾日も自分の自転車の上で過ごした後、私は快適で清浄な気分だった。自然環境との落ち着いた触れ合いで私は静かな気持ちになった。日に日に自転車への深い感謝の念が浸透していった。例え自転車行を楽しめなかったとしても、私は依然として静かな気持ちであり続けたであろう。日光を浴びる事、雨で濡れ鼠になる事、埃での咽び、滴る霧、厳しい空気、向かい風!――これ程素晴らしい強壮剤があるだろうか。私は決して忘れないだろう、ピュイマリー山へ登った日々の事を。5月のある日は私たち2人にとって良い日となった。私たちは、朝日の中上半身裸のまま出発した。半ば程で、雲が我々を包み込み天気は急変した。徐々に寒く湿気が出てきたが、特に気にはしなかった。実際の所、それは私たちの満足感を高めた。上着や外套を羽織る事に悩まされ無いまま、山頂の小さな宿に着いた時、私たちの体には雨の小川と汗の滝が流れていた。私は頭の天辺から爪先まで、血管がどくどくと波打っていた。

●死、そして記念碑

デ・ヴィヴィエは菜食主義者、エスペラント語話者であった。晩年には毎日古代ギリシア語を読む事を始めた。1930年2月27日、彼が最後に読んでいたのは小セネカの書いたものだった。

 死の影が忍び寄り、命が私から抜けていこうとしている。もし私が眠ったなら、もう二度と目覚めないのではないか。私が起きた時、私は二度と眠らないのではないか。私が外へ出たとき、私は決して戻ってこないのではないか。

その時彼は自身の自転車を集め、道を横切ろうとした。車を避けるために後退したところに路面電車が衝突した。彼の記念碑はコル・デ・ラ・レピュブリックの頂上にある。そこにはこう記されている:「ポール・デヴィヴィエ、またの名をヴェロシオ(1853年ペルヌ生まれ、1930年聖エティエンヌ没)。自転車旅行の伝道者にして外装変速機の推進者。記念碑は生誕150年を記念してペルヌ・レ・フォンテーヌ市によって建てられた。落成式は2003年4月20日に行われた。

ヴェロシオの記憶は彼が作ったシクロ・ツーリズムというフランス語と共に残っている。彼はリヨンに近いロワイヤル墓地に葬られた。墓標には「高潔な匠、聖エティエンヌのシクロ・ツーリストに捧ぐ」と書かれている。聖エリエンヌには彼の名にちなんだ道路がある。

アメリカのライター、クリフォード・グレイブは1965年5月に次のように言った。

 ヴェロシオの自転車に対する功績によってではなく、彼が示した、功績が人物を形成するという点によって、彼の影響力は広がっている。ヴェロシオは人文主義者だった。彼の哲学は、鍛練というものは基本的な美徳と考えられていた古代のものから来ている。鍛練には二種類あり、肉体的なものと道徳的なものである。ヴェロシオは自転車による肉体的な鍛練から道徳的な修練を導いた。自転車を通して、彼は太陽、雨、風と交わる事が出来た。彼にとって、自転車は個人的な哲学の発露であり、自転車は着想を支える楽器であり、また肉体的、精神的な自由への道であった。彼は多くを諦めたが多くを発見したのだ。

2014年3月3日月曜日

Roadster

また英語の勉強がてらの翻訳です。BBCのニュースの翻訳が面白くなくなってきたので、英語版Wikipediaから興味のある項目を訳してみました。当然ですが素人の翻訳なので、正確な内容が知りたい場合は原文を参照して下さい。

原文はこちら
http://en.wikipedia.org/wiki/Roadster

●ロードスター

ロードスターとは、かつては世界中に膾炙しており、今でもまだアジア・アフリカ・デンマーク・オランダでは一般的な実用自転車の一種である。またここ数年で伝統的な様式のロードスター型自転車は、西欧に於いて生活様式やファッションの分野でかなりの人気を博している。

▽設計と亜種

ロードスターには三つの基本的な亜種がある。

・紳士用ロードスター

古典的な紳士用ロードスター(別名、英国式ロードスター)は、ラグを使って溶接された鉄製のダイアモンドフレーム、ロッドブレーキ、アップライトなノースロードハンドルバー、シングルギアないしスターメイアーチャー製の内装三速ハブギア、チェーンケース、鉄製の泥除け、コッタードの鉄クランク、28 x 1½ インチ (ISO 635、訳注、ETRTO 38-635)のホイール、ウェストウッド製のリム、そしてしばしばスターメイアーチャー製のハブダイナモを装備している。ロードスターはその設計や製造の過程では耐久性を第一に作られていて、軽量化については二の次であったので、車重は20-23kg以上であった。古典的なロードスターは警察や地域の郵便配達夫に使われた。興味深い事に、ロードスターから派生した淑女向けのモデルは、めったにロードスターと呼ばれる事は無かった。

ロードスターは、ヨーロッパで都市型自転車を意図して設計され現在でもドイツやデンマーク、とりわけオランダで使われている自転車にとても似ている。主な違いは、それらの大陸製自転車は、より上体が起きた姿勢にする為にハンドルの位置がより高い事と、ロッド式のドラムブレーキを装備している事である(訳注、古典的なロードスターが装備しているのはロッド式のリムブレーキ)。

・淑女向けモデルとオマフィーツ(the Omafiets)

淑女用に設計されたロードスターは1890年代という時節に適ったものだった。それは、女性がドレスやスカートで乗る為に紳士用のダイアモンドフレームよりは跨ぎ易い形のフレームで、通常はドレスやスカートが後輪に巻き込まれないようにするスカートガードが付いていた。紳士用ロードスターと同じように、フレームは鉄製で乗車姿勢が高くなるハンドルバーが装備されていた。初期には前輪はスプーンブレーキであったが、技術が向上した後にはより性能の良いコースターブレーキ或いはロッド式のリムブレーキやドラムブレーキが装着可能になった。

20世紀になり、淑女向けのロードスターがイングランドやその他の西欧諸国で時代遅れになったにも関わらず、それはオランダでの人気は一向に衰える気配がなかった。一部の人々が、淑女向けに設計されたロードスター型自転車の事を「オランダ式自転車」と呼ぶ所以である。オランダでは、これらの自転車はオマフィーツ(オランダ語でおばあちゃんの自転車の意)と呼ばれ、フリースラント地方ではウィドフィーツ(フリジア語で後家さんの自転車の意)と呼ばれている。古典的なオマフィーツは、伝統的な淑女用ロードスターの設計に従っており、シングルギア、28 x 1½ インチ (ISO 635、訳注、ETRTO 38-635)のホイールで、フレームと泥除けは黒く塗られ(後輪の泥除けには白い紋章が描かれる)、リアホイールにはスカートガードが付いている。近代的な亜種としては、さまざまな色に塗装されたアルミフレームの物や、ドラムブレーキや多段内装ハブギアの物がある。これらは全て見た目や寸法は古典的なオマフィーツに従っている。(オランダ式紳士用自転車は、オパフィーツ(オランダ語でおじいちゃんの自転車の意)或いはスタッドフィーツ(同じく都市型自転車の意)と呼ばれ、一般的はオマフィーツと同じ特徴を持つがフレームがダイアモンドフレームである所が異なっている。従ってオパフィーツは英国式の紳士用ロードスターと極めて似通っている)

・競技用ロードスター

競技用ロードスターという亜種もあり、別名軽量ロードスターとも呼ばれる。それらは典型的にはより軽いフレームでかなり急勾配で凡そ70から72度になるシートチューブ・ヘッドチューブになっている。ケーブルブレーキ、快適な「フラット」ノースロードハンドルバー、泥除け(ついていない場合もある)、3-5速の外装変速機を装備している。競技用或いは軽量ロードスターはエンドリック社のリムで組まれた26 x 1⅜ インチ (ISO 590、訳注、ETRTO 37-590)の伝統的な英国サイズのホイールであるが故に、より低いハンガー下りとそれに応じて低いスタンドオーバーハイトで、重量は約16-18kgになっている。これらの自転車はアメリカでは間違って英国式レーサーと呼ばれている。

多くの活動的なサイクリングクラブのメンバーに好んで利用されるにつれて、当時の高性能自転車はクラブスポーツやセミレーサーと呼ばれるようになった。典型的なクラブ型自転車とは、レイノルズ531のチューブで作られたフレームで、細見でバネのついていない革サドル、逆さに装着したノースロードハンドルバー(或いはドロップバー)、鉄製の「鼠取り型」ペダルにトウクリップ、5-15段の外装変速機、26 x 1¼ (ISO 597、訳注、ETRTO 32-597)や 27 x 1¼ (ISO 630、ETRTO 28-630)インチのアルミリムに軽量高圧のタイヤを装備したものである。別のクラブ型自転車には、もっと風変りなスターメイアーチャーハブ――ミディアムないしクロスレシオの3-4速の物、更に少数派にはACSの3速の固定内装ギアを装備している者さえ居た。多くのクラブ型自転車はシングルギアで、普通は固定ギアとフリーギアのダブルコグのホイールだった。外装変速機がこの形式の自転車に使われ始めたのは1940年代初頭である。主として集団高速走行を志向していたけれども、タイムトライアルやツーリングにもよく利用された。

▽歴史

20世紀の初旬から第二次世界大戦後まで、ロードスターは連合王国及びその衛星国で最も売れた大人の自転車だった(この文章の翻訳甚だ自信無し。原文はFrom the early 20th century until after World War II, the roadster constituted most adult bicycles sold in the United Kingdom and in many parts of the British Empire)。後の数年間での自動二輪や自動車の出来にも関わらず、ロードスターは成熟した大人の主たる移動手段として存在していた。イングランドに於ける主要な製造会社はラレー、BSAだが、カールトン、フィリップス、トライアンフ、ラッジ・ウィットワース、ヘラクレス、エルスウィック・ホッパーも製造していた。

アメリカでは、世界大戦後に競技用ロードスターは輸入され英国式レーサーとして知られた。それはすぐに、伝統的な若者のクルーザー自転車の代わりとして大人の自転車乗りに人気が出た。英国式レーサーはレース用自転車ではないのだが、車重が軽く、大径で細見のタイヤや内装ハブギアを装備していた為に速く、クルーザーよりも登坂性能が高かった。1950年代後期にアメリカの製造会社であるシュウィンは、彼ら自身の「軽量版」英国式レーサーの製造を開始した。

ブリテン島では1970年代初頭の間、実用ロードスターは著しく衰退していった。余暇でのサイクリングの流行に起因して、製造会社は軽量(10-13.5kg)で手頃な外装変速機を持った競技用自転車に注力し始めたのだ。改造されたレース用自転車の時代の到来だった。

1980年代に連合王国の自転車乗りは、車道のみを走る自転車からマウンテンバイクの様な全地形対応型自転車に移行し始めた。マウンテンバイクの持つ頑丈なフレームと積載能力は、それに実用自転車としての側面を生じさせ、それまでロードスターが占めていた地位を剥奪した。1990年までにロードスターは殆ど絶滅していた。この頃、連合王国の自転車の年間売上高は、過去最高の280万(訳注、単位は[台]か)にも達していたが、その殆どはマウンテンバイクか、ロードバイクのものだった。

・現代社会に於けるロードスター

世界の多くでロードスターは依然として日常の移動手段として標準的な自転車の地位を占めている。アジア(主としてインド、中国、台湾)で大量生産されたものが、遠くはアフリカやラテンアメリカといった発展途上国に輸出されている。中国の飛鳩(Flying Pigeon)社は、世界中で使われている最も有名な唯一の自転車だった。入手の容易さ、鉄フレームやフォークの耐久性、そして溶接によって修理可能な事がロードスターを発展途上国(特にその辺境地)に於いて普遍的で最も一般的な自転車にした。東アフリカの一部ではロードスターはブラックマンバと呼ばれている。また自転車タクシーとしても使われていて、運転手らはロードスターはボダ・ボダと呼んだ。

1950年以降、伝統的なロードスターはオランダやベルギー周辺の北欧諸国を除いて英語圏やその他の西欧諸国では消滅しかけていた。しかしながら今では、そのアップライトな乗車姿勢や荷物の搭載性能、単純で少ない整備で済む機構などが地方都市での移動手段としての理想的であるとされ復権し、多くの国々で以前の人気を取り戻しつつある。

連合王国では、複数の自転車製造会社(例えばパシュレー社)が最新の技術を使った古典的なロードスターを製造している。またオランダのロイヤルダッチガゼル社の様な大陸の製造会社からの輸入もしている。これらは学生――特にキャンブリッジやオックスフォード――に大学での移動手段として人気を集めている。またロンドンを含む他の英国の都市でも増加している。オーストラリア特にメルボルンでもまた、ロードスターの利用が盛んになっている。パピリオネイアといった地元の自転車会社の元では、沢山の1950、60年代の中古のロードスターが発見されリストア市場が広がっている。



一部、わからない部分の翻訳に協力してくれた友人のつかださんに感謝。

2014年3月1日土曜日

Revenge of the Giants 3 [159]

 表題のキャンペーンです。DMは羽生さん。レベルは全員13です。参加者は以下の通り。

  • [指揮役/防衛役], ミロク, Hybrid Cleric/Cavalier(Multiclass Monk), Paragon of Victory, Human, 画伯
  • [撃破役], グラッジ, Warlock(Multiclass Warlord), Witchmaster, Draconian, つかださん
  • [撃破役/防衛役], ミラー, Hybrid Barbarian/Cavalier, Draeven Marauder, Eladrin, からくりさん
  • [防衛役], スパイク, Hybrid Battlemind/Swordmage, Storm Disciple, Hobgblin, 死せる詩人
  • [指揮役?], ルロウサール, NPC

 指揮役のプレイヤがお休みなのでNPCが同行しました。通称お獅子仮面。この回でミラーとスパイクが戦死しています。死体を回収できなかったのでロストとなり、次回2人は新キャラ投入です。