ヘンリー・メリヴェール卿が活躍するシリーズ。今回は視点人物の近くにH・M卿がいる事は少ないので、どちらかと言えば「暗躍」かもしれません。
本書には殺人のトリックとは別に、大きな仕掛が用いられています。その仕掛がこの作品をとても際立たせているのではないでしょうか。読めば直ぐに気が付くのですが、この物語では最後の最後まで、発生している事件をちゃんと認識する事ができません。読者は状況を整理できないまま、物語はどんどん先に進んでいきます。
言わば、事件が不在のミステリなのです。
読者の目から事件そのものを隠してしまうカーのレトリックは驚嘆するべきものがあります。ある種のメタミステリと捉える事もできます。叙述の形態でミスディレクションを行ない読者を騙すトリックの事を叙述トリックと言いますが、騙すどころか事件を認識させないこの作品はディレクションレスなミステリなのです。
普通に考えれば、ディレクションレスなミステリでは「小説」は成り立たない筈です(不条理な散文詩のようになってしまうでしょう)。しかしながら、読み終えてみればちゃんと「ミステリ小説」が完成しているのです。それはH・M卿という軸がコッソリ物語を支えているからなのでしょう。
もう少し殺人トリックが不可解なものだったら、傑作と言われておかしくない作品です。カーは「密室の帝王」とか「不可能犯罪の巨匠」と呼ばれトリックの技巧が優れた作家だという評価が一般的ですが、こういったメタミステリ的な視点を、同時代の作家に先駆けて一早く作品に取り込んだ作家なのではないでしょうか。そのメタな視点は『読者よ欺かるるなかれ』や傑作と名高い『火刑法廷』にも表われています。
0 件のコメント:
コメントを投稿